正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

御陰殿の坂と橋  (第104回)

 これからしばらく、上野や根岸、谷中や日暮里の地理や歴史のごく一部という地味な話題を続けます。くどくならないよう、正岡子規の著作や「坂の上の雲」によく出てくる地名・人名に所縁のあるものに絞ります。

 上野の台地(昔の名は、双ヶ岡。ならびがおか)や道灌山から、根岸・日暮里方面に降りてくる坂は、地形上、短くて比較的、急な坂道です。道灌山から西日暮里に降りてくる道は、かつて秋山真之が最終章で子規の墓参りに歩いた道かもしれないと書きました


 道灌山や、駅で言うと田端・駒込に登るには、この坂が一番、穏やかな勾配です。子規の葬送行列も、この坂を上って田端に向かっている。生前の彼が、道灌山に登って根岸に戻る人力車も(その逆方向も)、ここを通るのがいちばん楽です。

 坂は小さいのがたくさんありますが。、古い地図ではこれも含めて単に「坂」と書き込んであるだけで、手元にある江戸時代の地図二枚において(元禄と安政のころ)、固有名詞が付いているのは「芋坂」だけです。


 この名は子規の俳句や、明治文豪の作品にもよく出てきます。坂を下り切ったところに、羽二重団子でお馴染み、「坂の上の雲」の最後の章に、松の木茶屋という名で出てくる店が昔も今もある。

 おそらく、この坂が謂わばメイン・ルートで、私は勝手に上野寛永寺の「裏参道」と呼んでいます。谷中墓地の真ん中を走っている広い道の続きですし、羽二重団子の前を流れる音無川にかかっていた橋は、今も欄干の跡がありますが、公方様の御成があったそうで「将軍橋」という名前。渡れば善性寺です。


 この東方と西方にも坂がある。西には、日暮里駅北口に隣接していて、今は鉄橋に下御陰殿橋という名が付いており、並んだレールが壮観で鉄道ファンに人気があります。でも御陰殿とは直接の関係はないはず。

 反対の東側にあるのが、御陰殿と寛永寺の寺務所をほぼ直線距離で結ぶ小道をつたい、根岸に降りる坂です。御陰殿坂と呼ぶ人もいますが、そういう坂の名を載せた地図の存在を知りません。そもそも、坂が書いてある地図を見たことがない。ただし、その坂が音無川を渡る橋は、御陰殿橋と呼んだらしい。




 上が荒川区による御陰殿坂の説明版。区境の反対がわ(北側)に、台東区による御陰殿の説明版があります。音無川が暗渠になったあとを走る道が、行政区分の境目になっているからです。

 これをお読みいただければ、これ以上、私が御陰殿や輪王寺宮の説明をする必要も意義もなくなりますので便利。この橋の看板から、北に向かうと登坂で、上野に至るわけですが、幕末維新のころまであったはずの坂は、ほとんど削られて、今はその痕跡程度しかありません。


 削った理由は、ここに鉄道の線路を敷くためで、子規が病床で聞いている汽車の音は、その線路上を走っていたものです。最初に今の常磐線ができ、山手線・京浜東北線高崎線宇都宮線が加わったので、広くて長い踏切になった。現在はその上に鉄橋の高架がありますが、車は通れません。人と犬だけ。

 これは勝手に使うと叱られるのかな。そっちこそ近所で勝手に写真とっておいて。
https://www.google.co.jp/maps/@35.7251694,139.77418,85m/data=!3m1!1e3

 この踏切のあとは、おそらく山手線でも他に無いのではと思われるほど、はっきりと今も残っています。しかし当時は、貴人も通る道だったろうし、漱石や鴎外が子規庵に通った道は、何で読んだか忘れましたが、例えば鶯谷駅から東に降りる、明治時代にできた新坂という広い道でした。


 幕末の最終段階で戊辰戦争が起きたとき、上野は彰義隊が立てこもり、砲弾まで飛び交いましたから、全くの無血開城かというと微妙なところです。もっとも彰義隊は、鳥羽伏見や北越奥州と異なり、徳川や友藩の正規軍ではありませんから、上野戦争と呼ぶのは反対です。せいぜい「乱」でしょう。もっとも、明治時代の絵に「東叡山戦争」というのがある...。

 このとき、後に近衛師団長となる北白川宮能久親王、当時は最後となった輪王寺宮の一行が逃げ降りたのが、おそらくこの小さな坂だったと思います。そういう記録は見たことがありませんが、御陰殿に至る知った道ですし、根岸には御陰殿を守る武士の屋敷がありました。


 この屋敷は彰義隊の戦いで歴史から消え、このあたりは「坂の上の雲」の「根岸」の章にも出てくるように、加賀前田家が別荘地のようなものとして買い取った。家来ほかの家も建った。そのうちの一つが子規庵です。確か子規の句にも、百万石前田家の借家だったという作品がありました。

 上野の山が、いきなり根岸で平地になりますので、湧き水があったはずです。音無川は運河ですから、天然の河川がなく水はけが悪い。明治のころは、いつも足元が悪かったと「坂の上の雲」や子規の随筆に出てくるのは、これが主な原因でしょう。今は舗装され、雨水排水設備も整っています。




(おわり)



御陰殿の坂の上の春  (2017年4月16日撮影)


















































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