正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

「殉死」について  (第182回)

 すでに何回か取り上げた司馬遼太郎著「殉死」を、改めて読み返してみました。正直なところ、このブログも乃木さんという大物を一つのテーマにしたため、消化不良を起こし、なかなか更新が進まなくなった。そこで「坂の上の雲」から、いったん離れて「殉死」を再読してみた。

 この中編小説の主人公はもちろん、ひたすら乃木希典である一方、筋の展開としては雑駁にいうと、山鹿素行に始まり、山鹿素行で終わっている。具体的には、始まりの部分で山鹿素行の影響を受けた浅野内匠頭赤穂浪士の話題が出てきて、終わりのあたりに山鹿素行の著作である「中朝事実」が出てくる。


 日本における朱子学陽明学は、本家中国の朱熹王陽明の学問とは、異なる要素も取り込みながら膨らんでいったようで、ちょうど鎌倉仏教のように日本人向けに変化したと解釈している。ただし、あまり深入りすると切りがないので再び雑駁にいうと、朱子学江戸幕府の統治用の政治思想になり、陽明学は反体制的な立場をとった。

 陽明学とは、司馬遼太郎によると、己が真実と考えるものごとは絶対的に真理であり、だが考えているだけではだめで、その「精神に火を点じなければならず、行動を起こさねばならず」、それによって思想は完結するという急進的・行動的な儒学であった。こういう人を敵に回すと、吉良上野介さんのような目に遭いかねない。


 松陰の吉田家は代々、毛利藩にあって陽明学の影響をうけた山鹿流軍学兵学者だった。ただでさえ思想的に過激なのに、それを軍事学に適用するとどうなるか。松陰と乃木さんの師であった玉木文之進は、日常生活からして苛烈で、玉木が幼い頃の松陰を窓から放り投げて叱ったという逸話が「坂の上の雲」に出て来た。

 反体制的思想で行動主義というからには、幕末維新の時期に大人しくしていられるはずがない。思想的・精神的には、本人たちにとって純粋無垢であり、他者にとっては危険物になりかねない。松陰や玉木の人生は、これだけにのみ一直線に生きた観がある。吉田松陰の歌にある「大和魂」というのは、そういったものの一表現なのだろう。


 山鹿素行の「中朝事実」は、何だか今の日本における或る種の主張に似て、本物の「中朝」(まあ、中央の朝廷のような意味か)は、中国ではなくて、ここ日本であるのが事実であるという意味らしい。日本はすごい、ともいう。尊王攘夷においては、たいへん便利な攻撃的思想になる。

 ところが、明治の時代になると、体制側に薩長藩閥が座り、中心に天皇がいて、神聖にして侵すべからずになった。後世の日本(特に昭和前半の軍人政治家)において、賞味期限が切れたこの思想を、グローバルに拡張しようとしたのが、八紘一宇とか東亜共栄とかいうスローガンの政治(これも今と似ている)となる。

 
 乃木さんの世代は、そこまでの軍事的、経済的な実力をこの国がまだまだ持たない。司馬さんによれば、まずは幕末に強いられた不平等条約の是正を、時間かけてやっているような段階にあった。そういう時代背景の中で、それでもなお乃木さんは「中朝事実」にこだわりつづけた。殉死の直前、後の昭和天皇に対する最後の講義のテキストもこれであった。

 これが彼の人格形成や、軍人あるいは家庭人としての考え方や行動に、どのような影響を及ぼしたのだろう。例えば彼は若い頃はグレて、放蕩生活を送った。そのあとで、陸軍少尉のときドイツに留学し、別人のようになって帰って来た。私の若いころの言葉で言えば、カルチャー・ショックを受けたらしい。


 このころ留学で欧米に行った人たちが受けた影響は、面白いほどに人によって違う。秋山兄弟は真面目で(なんせ貧乏育ちだから、手を抜けない)、兄好古はフランスで騎馬を学び、弟真之はアメリカで米西戦争を観戦し、マハンに学んだ。留学の成功例です。もちろん諜報・情報収集の活動も兼ねている。

 文部省の留学生でイギリスにわたった夏目漱石は、持ち前の人間嫌いとプライドがたたったか、気うつになり、友人子規の手紙を待っている。公私ともに豪快だったのは広瀬武夫だろう。地味だが立派なのは、東郷平八郎国際法


 ドイツから戻った乃木さんが提出した報告書の趣旨が「殉死」にも載っているが、ヨーロッパの列強が戦争や貿易競争に強いのは、宗教のためであるという結論が出たらしい。これに比べて日本の仏教は頼りないというような意見書を出す。

 私が何度か「坂の上の雲」は、先の戦争を引き起こした軍国主義の批判書だと書いたのは、このあたりの乃木さんの突き詰めたような精神主義と、後に実現する天皇を唯一の現人神として奉る一神教の萌芽の一つを、司馬良太郎がここに観ていると感じるからだ。だから乃木さんに、こんなに厳しい。「殉死」は「坂の上の雲」よりも、さらに過激である。乃木さんは「愚将」であるばかりか、そのことに本人も気づいていないと、はっきり書いてある。


 今となっては遠い昔のできごとのようだが、昭和天皇の「大葬の礼」のとき、私は海外駐在中だったので(ネットも無かったし)、あまり詳しく知らないのだが、日本中、自粛の嵐であったらしい。精神性は残っていたのだが、行動性のほうは逆に出て、「何もしない」という行動に出た。

 乃木夫妻の殉死は、明治天皇大喪の礼、当日のことだった。崩御から一か月は経っているから、錯乱したのではなく覚悟の自殺です。この行動により彼の思想は完結したらしい。私にはその凄まじさは充分すぎるくらい伝わってくるが、その結論を出すに至るプロセスなり理由付けなりが、今一つわからない。本人が遺書に書いた軍旗喪失の件は、もちろん疑いはしないが、それだけでそこまでやるだろうか。奥様も大変でした。


 というようなことは、つまり後世の私ごときに理解不能であるというというようなことは、乃木さんの「絶対真理」にとっては、実にどうでも宜しい事柄なのだろう。彼が好んだ様式美やストイシズム、息子の戦死地で漢詩をつくるような演劇的な行為は、司馬さんのいう「繊細過ぎて軍人に向かない者」の防衛機制のようなものかもしれない。防衛機制というのは、無意識の「よろい」のような守備固めだ。彼の場合、軍服・軍靴で寝る。

 軍事力で政権を奪取した長州に生まれ育ち、毛並みも良かったので世俗的には栄達した乃木さんであるが、晩年選んだ人生は一人の郎党であり、その人生の決着は、倒した相手の徳川幕府まで禁じた時代遅れの殉死だった。それもまた、一種の「反体制」なのだろうか。なぜこのような堂々巡りをしているかというと、旅順攻囲戦において、本人が望んだことではないのだが、その損害の大きさからして「一将功成りて万骨枯る」の様相を呈したことと、彼の殉死とがまだ結びつかない。



(おわり)





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当家のバルコニーから見た朝日
(2019年2月1日撮影)

















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