正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

戦い済んで  (第181回)

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。はてなブログに転居して初めての記事です。昨年末は多忙と体調不良が交互に来て参りました。この程度のブログでも、それなりに勉強や体力が必要であります。

 今回は久々の登板のための肩慣らし。正月早々、戦争の話題かいと言われそうですが、日露戦争にご関心のある方はご承知のとおり、第三軍の前に厳しく立ちはだかり続けた旅順要塞が降伏したのが1905年1月1日でした。明治天皇も大層、お喜びであられたと聞く。


 ロシア軍が、何かの理由でこの日を選んだという話は耳にしたことがない。うろ覚えで恐縮ですが、確か彼らは独特の暦を使っていたのではなかったか。後の日本軍のように皇紀何年などと言い出すが如く、暦とは日月の運行のような自然科学の現象と、民族文化の両方で決まるようです。

 一年の計は元旦にあると申しますが、毎年、この日は酒が入っているため(二日酔いも含む)、結局、その年は酒の計になる。平和で何より。もう戦争はこりごりと思ったロシア兵が、どうやら「降伏するらしい」という噂だけで、無条件降伏してきた様子が「坂の上の雲」に描かれている。


 同書はあまり民族問題には触れていないのだが、しかし、当時のフィンランドポーランド、それからユダヤ民族が、ロシア帝国に過酷な目に遭わされていたことなどが、断片的に出てくる。

 旅順の要塞に立てこもって戦った兵士の中にも、そうした純粋スラブ系ではない異民族が少なからず、いたはずだ。勝ってどうなるはずもない立場で、でも負けたら困る。コサックだって同様だろう。


 帝国主義のもろさなんだろうな。詳しく知らないが、元寇もモンゴル人だけで攻めてきた訳ではなく、モンゴル帝国は他の地でもやらかしたらしいが、ある国を乗っ取ると、妻子を人質にして、その国の男たちを最前線で戦わせたらしい。だから短期的には、あんなに強かった。元寇も中国や朝鮮の若者が連れて来られたと聞いたことがある。

 日露戦役における外交的な勝因に日英同盟があるが、あれも通説では、イギリスがボーア戦争に疲れ果て、欧州中心のパワー・オブ・バランスが崩れたからだと高校で教わりました。ロシアを牽制しなければならなかったからだ。日本は上手いこと利用されたのだろうが、今のアメリカより、協力的であったように感じる。


 またそれとは別に、国内が疲弊していると、自国民さえ敵に回す。先の元寇も、せっかく神風が吹いて、ほぼ不戦勝だったのに、当時の分捕り品の代表である新しい土地が手に入らなかったため、論功行賞で不満が出た。鎌倉幕府もえらい迷惑であったが、軍事政権というのは普段、威張っているだけにこういうとき弱い。

 ロシアは旅順陥落と同じ年に、戦艦ポチョムキンの反乱と血の日曜日事件があった。日露戦争では我が国も金がかかり、国債は売るわ、増税はするわ、アメリカから資金援助を受けるわで大変であったが、たぶん帝政ロシアは、周辺国や自国の非支配者層をそうとう収奪したに違いない。地球の裏側で戦うもんじゃない。おかげで、もう革命の序曲は流れ始めたのだ。


 国や社会がひっくり返るような事態は、十年も二十年もの時を要する。フランス革命も長い。アメリカの独立も、南北戦争まで含めれば、また、明治維新西南の役まで含めれば長い。ロシアも折角、朕が「戦争を欲しない」と言ったのに、領土拡張欲に慣性の法則が働いたのだろう。

 イギリスにとっての南アメリカも、ロシアにとっての日本も、日本にとってのミッドウェーやインパールも、あまりに戦場が遠い。そこまで行くだけで、空気を運んでいるだけみたいなものなのに、膨大な戦費がかかる。だからって、長距離のミサイルなんか飛ばされたらかなわないが。幸い最近は飛んでこない様子。


 さて、何度も繰り返し「坂の上の雲」に出てくるのは、これが騎士や武士の最後の時代の最後の戦争だったという司馬遼太郎の評価である。特に敗者や捕虜に対するいたわりという点で、日本はここでも国際法同様、世界の「優等生」たろうとした。

 ステッセルに対する乃木希典と、ロジェストウェンスキーに対する東郷平八郎の面談の場面は、その典型だ。特に乃木さんは軍服姿で寝るほどのスタイリッシュでストイックな騎士でもあり、それと矛盾することなく、主と生死を共にし、詩に思いを託す武士でもある。


 乃木さんはステッセルに厳しいロシアの軍事法廷にまで口をはさみ、例の津野田もがんばって罪一等を減じた。軍人もたまには雄弁であるべし。交戦的な国は敗将に対して苛烈な態度をとるが、日本から見れば、早いこと白旗を掲げたステッセルやネボガトフの判断は、称賛してしかるべきである。

 「坂の上の雲」には、「ネボガトフ」という章まである。ほかに、個人名が付いたのは相手側では、マカロフじいさんだけだったはずだ。


 旅順陥落の際に、ロシア兵と日本兵が繰り広げた抱擁や宴会は、殺し合いに厭きた兵士らの和平協定になった。もっとも、乃木軍はこのあと北上し、クロパトキンを相手にしなければならないのだが、やはり「坂の上の雲」における乃木さんは最後まで冴えない。陛下の前で取り乱して終わる。

 もしも乃木さんを、客観的な成果なり損害なりで計って愚将とするならば(実際、後年の陸軍兵学校などでは、厳しい評価をされていたそうではないか)、こんな職業軍人でもない知らない若者同士が戦い、膨大な戦死者を出すような火力物量の近代戦において、その指揮を勇んでとるような人ではなかったからではあるまいか。

 現代風にいえば、適性に欠ける。適性に適不適があるのは自明のことで、きっと生まれるのが遅すぎたのだ。司馬遼太郎は「殉死」において、その書き出しに赤穂浪士のエピソードを持ってきている。これは偶然ではなかろうと私は思うのです。



(おわり)



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東北の田園、春まだ遠いが、豊作の予感。この土地は津波で水没したと、地元の方からお聞きしました。
(2018年11月13日撮影)









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