正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2014-01-01から1年間の記事一覧

大龍寺  (第14回)

せっかく真之が歩いた道の検討をしたこともあり、子規のお墓参りに行ってきました。今回が二度目の墓参。ここで前回までに書いた「可能性の高い道」をそのまま歩いた。ただし、帰りは疲れ切って(その休日が、ものすごい高温多湿の日だったのだ)、電車で戻…

王子街道(後半)  (第13回)

前回と今回は「坂の上の雲」のストーリーとは関係がない。よほど歴史や地理が好きで、この辺を知っている人でないと面白くもなんともないだろう。最初にお断りしておくと、前回これが真之の歩いた道だと言ったものは、もっともその確率が高いからだと思うか…

王子街道(前半)  (第12回)

子規の書いた日記調の文章などを読んでいると、ときどき不折あるいは不折子という人が出てくる。画家・書家の中村不拙のことだ。伊集院静著「ノボさん」によると、不折は子規の口利きで新聞日本に挿し絵を描くようになったという。 後には子規の号から命名さ…

三人が寄り添うように  (第11回)

根岸に行くと言い残して秋山真之が出かけたのは、「子規の家にその母と妹をたずねるつもりだった」と司馬さんは書いている。ところが彼は二人に会わずに帰っている。 それがなぜなのか、これでもずいぶん真面目に考えたのだが、結局さっぱりわからん。子規の…

藤の木茶屋と羽二重団子  (第10回)

題に二つ並べて書いたが別物ではなく、江戸時代の創業のころは「坂の上の雲」に出てくるように「藤の木茶屋」という名であったのが、現在は株式会社羽二重団子の商号および主力商品名として有名になっている。同社のサイトにそのように書いてあるから、それ…

善性寺と音無川  (第9回)

芋坂のあたりを通りかかった秋山真之は「雨の坂」によると、空腹をいやすべく「藤の木茶屋」に立ち寄っている。江戸時代から続くこの老舗の茶屋は、今も「羽二重団子」として現役なのであるが、この話題は次回の楽しみにするとして、今日は近辺に寄り道する…

根岸の芋坂  (第8回)

しばらくの間、最終章「雨の坂」に出てくる「ひとつの情景」を読む。書き出しは1905年10月23日に、連合艦隊が横浜沖で観艦式を行ったという出来事 である。龍田も和泉も筑紫もその栄えある場に居並んだが戦艦三笠がいない。佐世保の港に沈没したままになって…

雨の坂  (第7回)

小説「坂の上の雲」の最終章は「雨の坂」という題名である。作品名と比べ、何と淋しい響きであることか。正岡子規の家と墓に赴いた秋山真之が、田端の坂道で雨に降られたことに由来している。 この小説は秋山兄弟の伝記としての側面を持っていることもあり、…

和泉そして吉野  (第6回)

日本海海戦に関連する諸サイトを拾い読みなどしていると、どれもまあ勇壮なことこの上なく、旭日旗やZ旗が翩翻とはためいている。こうして戦艦の名をタイトルにしておきながら、私は余り艦船自体には関心がなく、それに乗っている人たちのほうに興味がある。…

信濃丸と病院船アリョール  (第5回)

もう一隻の「和泉」に話を進める前に、「信濃丸」に寄り道したい。この両艦はバルチック艦隊に接近遭遇した一番乗りとその後任なのだ。信濃丸は他の「丸」が付いている船と同様、民間から戦時徴用された仮装巡洋艦であった。 軍に召し上げられて気の毒にとも…

龍田  (第4回)

中学校の冬休みだったか国語の宿題で、百人一首をすべて覚えよという拷問があった。それでも当時は記憶力が良かったのか(たぶん人生経験が浅くて記憶の容量がまだ残っていただけだろう)、百首とも最初の五文字を聞けば残りは暗唱できるところまで行った。 …

筑紫  (第3回)

吉村昭著「三陸海岸大津波」の第1章は、「明治二十九年の津波」という題である。明治の二十九年は西暦でいうと1896年。日清戦争の2年後にあたる。三陸の漁師たちが「前例をみない大漁」に湧いていたこの年、まだ梅雨が明けていない6月、当時の日本観測史上、…

子規庵  (第2回)

小説「坂の上の雲」の感想文も早く書きたいなと思いつつ、せっかく第1回で子規庵の写真を掲げたので、その紹介をしてからにしようと思う。子規庵は東京都台東区根岸にある。住所その他の情報は、子規庵の外壁にあるこの看板をご覧ください。 鉄道で来る場合…

はじめに  (第1回)

こんにちは。今日から新たにブログを二つ、始めました。これまでの「20世紀少年の感想文」に加えて、「小寺文書 〜黒田官兵衛外伝?〜」、そしてこの正岡子規と「坂の上の雲」の感想文です。 私はいま子規がその若き晩年を過ごした根岸の近くに住んでいます…