正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

2017-01-01から1年間の記事一覧

三尾の紅葉  (第127回)

これを書いているのは、もうすぐ梅雨入りの季節ですが、紅葉の話題も、成り行き上しかたがない。文庫本「坂の上の雲」第二巻の「日清戦争」という章に、正岡子規の引越しの話題が出てくる。転居のきっかけは就職だった。新聞日本に入ることができた。 芭蕉破…

六月の風  (第126回)

須磨 六月を綺麗な風の吹くことよ 子規 私の好きな句だ。これを知ってから、自然と毎年、綺麗な風の吹く季節が訪れるようになった。明治二十八年の作である。1895年。この年は、子規にとって事の多かった一年だった。4月、日清戦争に従軍。 大連湾に行く海上…

かゆうていかん  (第125回)

戦闘の話ばかり続けたので消耗してきた。我ながら、もろい。方向転換して、子規やその周辺の人たちの話題に入ろう。明治38年7月、すなわち日本海海戦の2か月後に、雑誌「ホトトギス」は臨時増刊号を発行している。 これに高浜虚子が寄稿した「正岡子規と秋山…

市五郎  (第124回)

何回か前に沖ノ島を話題にしたのは、単に「シン・ゴジラ」に触発されただけなのだが、翌朝のニュースにこの島が出てきたのには驚いた。ユネスコが部分的に世界遺産の登録を許可するという話題だった。部分的にというのは、地理的には三か所に分かれている宗…

駆逐隊  (第123回)

小東郷は、駆逐艦にも乗っていた。日本海海戦のときは、駆逐艦隊が第一から第五まで、また、水雷戦隊は第一から第六まで、それぞれ四隻ずつで、合計44隻であったと、第四駆逐隊長の鈴木貫太郎が分かりやすく書いている。 最近ここで鈴木だ貫太郎だと、馴れ馴…

腹が減っては  (第122回)

「例の出羽司令官」と、その第三戦隊の参謀を務めた山路一善中佐の名は、そろって文庫本第七巻「艦影」に出てくる。同章のこのあたりの記述は、もっぱらバルチック艦隊が、対馬コースか太平洋コースか、そのいずれを採るのかという論争について触れている。 …

ヘロヘロ水雷  (第121回)

前回の最後にご登場いただいた出羽重遠と瓜生外吉の両司令官は、すでにこのブログの話題になっている。前者は仁川の砲撃、後者は対馬沖の接近遭遇。少し年月も経っているので、また題材にさせていただこう。 瓜生さんが拙宅の近所に亡くなるまでお住まいだっ…

送り狼  (第120回)

日本海海戦の直前、主力である東郷さんがいる第一戦隊や上村さんの第二戦隊は、朝鮮半島方面で待機しており、一方で、文庫本第八巻「運命の海」の章に「海戦史上、片岡の第三艦隊ほど索敵部隊としての能力を高度に発揮した例はなかった。」と書いてある第三…

和泉艦長  (第119回)

司馬遼太郎「街道をゆく」は、第43巻の最後に「未完」と書かれており、すなわち絶筆だろう。手元にその文庫本があり、前にもどこかで引用した覚えがあるが、改めて私の好きな箇所を引用します。 古代ギリシャの哲学者は、勇気と無謀は違うとした。無謀はその…

病院船  (第118回)

バルチック艦隊随一のお騒がせ舟、「病院船アリョール」は、最初に見つかってしまった敵艦であった。「坂の上の雲」第八巻の「敵艦見ゆ」に出てくるこの「アリョール」の灯火は、後檣(後ろのマストですか)に連掲されていて、色は白赤白だった。これは映画…

哨艦列  (第117回)

前回、書き漏らした。資料の引用元の戸郄一成編「日本海海戦の証言」は、戸郄さんが編者あとがきで示しているように、「戦袍余薫懐旧録 第2輯」(大正十五年)という書籍に拠るものが多い。 国立国会図書館のサイトにある。旧仮名遣いで写真や補足もないが…

間違い  (第116回)

前回の続き。玄界灘で水雷と砲弾の攻撃を受けた佐渡丸は、悲運の僚船常陸丸が沈んだが、自らは沈没を免れて連合艦隊に復帰した。最後の大仕事が1905年の5月下旬、日本海海戦の哨戒任務。 この前衛艦隊を指揮したのは、主に第三艦隊司令長官の片岡七郎中将。…

蔚山沖  (第115回)

沖ノ島の近海が、日露戦争の戦場になったのは、日本海海戦が初めてではない。ただし、通常は当該の地名として、玄界灘が出てくる。戦闘というよりも、災害に近い。一連の海難のうち、特に常陸丸の遭難が名高い。 その名のとおり、民間商船を軍事徴用したもの…

沖ノ島  (第114回)

子供のころから、宗教心もないのになぜか神話が好きで、ギリシャ神話や北欧神話や聖書物語は、いまでも愛読書だ。今日の話題は蔵書「現代語訳 古事記」福永武彦訳(河出文庫)から拾います。 最近これを引っ張り出したのは、映画「シン・ゴジラ」に出てくる…

春天  (第113回)

俳句の季語に、春天と書いて「しゅんてん」と読むものがございます。春一番ときくと強風を思い浮かべますが、春天となると、何ともうららかな感じがいたします。虚子も春が好きだったようで、春の空をよんだ句が多い。 雨晴れておほどかなるや春の空 虚子 他…

花旅団  (第112回)

子規のメモから第二師団の話を始め、これが長くなったのは、途中「東北でよかった」旨の発言をした薄馬鹿下郎(失礼)の閣僚が出たからだ。もうお仕置きは受けているので、ここでは程々にして本日、結びの一番。 遼陽に次ぐ沙河の会戦においても、黒木の第一…

饅頭山の戦い  (第111回)

「児玉がつねづね自分のあたまの内容をうたがっていることを知っている」黒木は、渡河作戦の重要さを改めて児玉源太郎に諭され、「おいをこけにするか」と卓子を叩いて怒った。ともあれ、全軍を引き連れて渡った。目の前に高粱畑が広がっていたらしい。コー…

仙台第二師団の門出  (第110回)

子供のころから知っている日露戦争の戦場といえば、旅順であり奉天であり対馬沖であった。映画になるのは、二〇三高地と日本海海戦であった。陸軍記念日と海軍記念日は、奉天と対馬沖における勝利の日であった。 小説「坂の上の雲」の貢献の一つは、これらの…

落合と首山堡  (第109回)

手元の文春文庫「坂の上の雲」第八巻は、最後の章「雨の坂」に続き、「あとがき」(一から六)がある。最後に、手ぐすね引いて出番を待っていた姿が目に浮かぶような巨星島田謹二による渾身の「解説」があるのだが、このあとがき集と解説の間に「落合と首山…

鵄  (第108回)

皇師遂撃長髄彦連戦不能取勝時忽然天陰而雨氷乃有金色霊鵄飛來止于皇弓之弭其鵄光曄莘条如流電 このブログも、煩悩の数だけ叩いて第108回。格調高く漢文で始めてみました。かくのごとく日本書紀は本邦初の史書なのに、漢語で書かれている。たぶん中国に読ん…

雁  (第107回)

最後の輪王寺宮は、後に赦されて伏見宮家に戻った。されどご本人は肩身が狭かったのか、海外留学を切望され、明治天皇の御許可を得た。宮様は明治天皇の叔父である。商船でドイツに渡った。出航時には同じ船に西園寺公望が乗船していたらしい。 6年余りの留…

彰義隊  (第106回)

うちの近所に徳川慶喜が引っ越してきたのは、後に明治元年と年号が改まる慶応四年のことだった。近所の話題が続きますが、あと二回の予定です。以下の大半は、吉村昭著「彰義隊」に拠る。彼の最後の歴史長編である。吉村さんも近所の東日暮里で生まれ育った…

婆の茶店  (第105回)

先を急ぐ前に、せっかく道灌山と御陰殿の地名を出したので、ごく一部だけ、高浜虚子著「子規居士と余」から引用する。子規は自分の事業すなわち俳句の分類ほか文学の研究を、虚子に継いでほしいと願った。しかし虚子は創作活動に専念したい。 その場面は、ま…

御陰殿の坂と橋  (第104回)

これからしばらく、上野や根岸、谷中や日暮里の地理や歴史のごく一部という地味な話題を続けます。くどくならないよう、正岡子規の著作や「坂の上の雲」によく出てくる地名・人名に所縁のあるものに絞ります。 上野の台地(昔の名は、双ヶ岡。ならびがおか)…

道灌山再掲  (第103回)

これからしばらく、近所の話が続きます。うちの近所とは、地名でいうと根岸、上野、谷中、日暮里など。行政区画でいうと東京都の台東区と荒川区。信号機に捕まらなければ、うちから子規庵まで5分とかからないし、「坂の上の雲」に登場する地名・人名の所縁に…

一本のろうそく  (第102回)

旅順から金州に戻った後の出来事は、やはり「青空文庫 従軍紀事」で読むのがいいので、詳しく転記するのはやめます。ルビもあるし、百年以上前の文章にしては読みやすい。司馬遼太郎ほか少なからずの人が、子規の散文も言文一致の運動に一役買ったという指摘…

春の草  (第101回)

1895年の4月、子規は15日に大連の柳樹屯に上陸して金州に一泊、翌16日から宿は再び海城丸となったが、19日に「小蒸汽船にて旅順へ赴けり」となった。旅順ではちょうど「大総督府附新聞記者」の一行も上陸してきて、一緒に彼らの記者宿所に入ったが、ここもま…

ほうかん  (第100回)

帝国陸海軍は、日露戦争の時期においてさえ、外国観戦武官の処遇をないがしろにして不当な報道をされ、国債の売れ行きに支障が出たという話が、「坂の上の雲」文庫本第四巻の「遼陽」に出てくる。観戦武官の中には、「われわれは豚のようにあつかわれた」と…

プロフェッショナリズム  (第99回)

前回の補足から始めます。子規が「新聞記者にして已に国家を益し兵士を利す」にも拘わらず、官尊民卑の侮辱に遭ったと書いていることについて、そのあとに、別の表現でこういう風にも言っている。 軍功を記して天下に表彰する従軍記者が将校下士の前に頓首し…

国家を益し兵士を利す  (第98回)

前々回に書き留めた内藤鳴雪先生の句、「君行かば山海関の梅開く」は、ただ単に名所を織り込んだものではなく、子規が従軍した近衛師団が、ここに行く予定という噂があったからだ。後日触れるが、この噂のことは子規自身が「従軍紀事」に書き残している。 私…